使徒たちの活動:「少なからぬ論争・割礼の問題」(使徒15:1)
皆様方の中の殆どの方は、「割礼」に関する歴史をご存じないかも知れません。割礼は西暦前1919年、アブラハムの息子イサクが生まれる1年前に、神エホバがアブラハムに割礼を義務として命じ、その後モーセの律法でもその要求の一つに割礼が義務づけられました(創世記17:1、9~14、23~27.レビ記12:2,3)。さらにモーセの律法は、イスラエル人以外の外人居留者に、過ぎ越しを食べることを許される前に割礼を受けるように求められました(出エジプト記12:43~48)。イエス・キリストが遣わされ、イエスの贖いの死によ ってモーセの律法(古い契約・旧約)は破棄され、新しい契約が発効されました。ですから、イエスの真の弟子・クリスチャンたちは割礼を要求されていません(使徒15:6~29)。大切なことは割礼でも無割礼でもなく、神エホバのおきてを守り行うことが明らかにされました(コリント第一7:19)。
今日、割礼の習慣はイスラム教社会に見られます。1世紀当時、真のクリスチャン会衆が異邦人に広がる中で、ユダヤ人のクリスチャンと非ユダヤ人のクリスチャンたちの中で、割礼に関する少なからず論争が生じます。使徒たちはどのようにこの論争を平和裏に解決したのでしょうか。私たちは使徒たちの活動を通して何を学ぶことが出来るでしょうか。
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今日は、「使徒たちの活動:「少なからぬ論争・割礼の問題」(使徒15:1)」の主題でお伝え致します。今日の紹介記事に思いを巡らしてくださり、ご自身の生活に出来ることから適用してくだされば幸いです。
パウロとバルナバはエホバのご意志の神の王国の真理の伝道を続け意気揚々としています。第一回宣教旅行を終えて、シリアの都市アンティオキアに戻ったところです。神エホバが「信仰への戸口を諸国民に開かれた」ことに胸を躍らせています(使徒14:26,27)。アンティオキアの町は神の王国の良いたよりの話で持ち切りで、「大勢の」異邦人がこの地のクリスチャン会衆に加えられています(使徒11:20~26)。
このクリスチャンの増加に関する朗報はすぐにユダヤに届きます。しかし、すべての人が喜んだわけではありません。むしろくすぶっていた割礼の問題が表面化します。ユダヤ人のクリスチャンと非ユダヤ人のクリスチャンとの関係はどうあるべきでしょうか。非ユダヤ人のクリスチャンたちは、モーセの律法をどのように見るべきでしょうか。この割礼の問題は論争を生じさせ、クリスチャン会衆を引き裂きかねないほど深刻になります。この件はどのように神エホバのご意志に沿って平和裏に解決されるのでしょうか。
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「使徒たちの活動」のこの割礼に関する少なからぬ論争の記述を調べると、多くの貴重な教訓が得られます。それは、この終わりの対処しにくい危機の時代の中で、分裂を招きかねない様々な問題が生じた場合に、賢明に思慮深く行動を取る助けになります。
使徒ルカは次のように記録しています。「ある人たちがユダヤから(アンティオキアに)下って来て、「モーセの慣例どうり割礼を受けないかぎり、あなた方は救われない」と兄弟たちに教えはじめた」(使徒15:1)。この「ある人たち」がキリスト教に転向する前にパリサイ人だったかどうかは述べられていませんが、少なくとも、そのユダヤ教の宗派の律法主義的な考えに影響されていたと思われます。しかも、エルサレムの使徒や年長者たちを代弁しているという誤った主張をしたようです(使徒15:23,24)。しかし、使徒ペテロが神エホバの指示通り無割礼の異邦人をクリスチャン会衆に迎� ��入れてから13年も経っていたのに、ユダヤ人のクリスチャンたちが割礼を奨励していたのはなぜでしょうか(使徒10:24~29、44~48)。
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いろいろな理由が考えられます。一つには、男子の割礼はエホバご自身によって制定されたものであり、神エホバとの特別な関係のしるしでした。割礼は律法契約の一部になったとはいえ、それ以前からあり、割礼を最初に受けたのはアブラハムとその家の者たちでした(レビ12:2,3)。モーセの律法の下では、外国人・外人居留者も、過ぎ越しの食事の特権にあずかるには割礼を受けなければなりませんでした(出エジプト記12:43,44,48,49)。それでユダヤ人は、割礼を受けていない男子を汚れた卑しむべき者と考えたの� �す。ですからその考えが、モーセの律法が破棄された後も、ユダヤ人の習慣が、ユダヤ人のクリスチャンの中にも根強く残ったものと考えられます。
ですから、ユダヤ人のクリスチャンにとって、啓示された真理に自分を合わせるには信仰と謙遜さが求められました。モーセの律法契約は新しい契約に取って代わっていたので、ユダヤ人として生まれたからといって自動的に神エホバの民の一員となることは、もはやありませんでした。また、ユダヤにいるクリスチャンなど、ユダヤ人社会で暮らすユダヤ人のクリスチャンにとって、キリストへの信仰を告白し、無割礼の異邦人を仲間のクリスチャンとして受け入れるには、勇気が必要でした(エレミヤ31:31~33.ルカ22:20)。
もとより、神エホバの基準は変わっていませんでした(マタイ22:36~40)。事実、新しい契約にはモーセの律法の精神が取り入れられていました(マタイ22:36~40)。例えば、割礼に関してパウロは後にこのように書いています。「内面のユダヤ人がユダヤ人なのであって、その人の割礼は霊による心の割礼で、書かれた法典によるのではありません」(ローマ2:29.申命記10:26)。ユダヤから来た「ある人たち」はこうした真理を把握できないでいました。それで、神エホバは 割礼の律法を廃棄・無効にしておられないと言い張りました。彼らは新しい契約の真理に対し、理性的に耳を傾けるでしょうか。人間は伝統や習慣に固執する傾向がありますが、克服できるでしょうか。さらに「論争と議論」が生じますが、そのことは明日お伝え致します(使徒15:2)。
お読み頂きました皆様方に感謝致します。皆様方の日々が平安で、快い命の道、光の道でありますようにお祈り申し上げます。
「参考資料」:ものみの塔聖書冊子協会発行:「神の王国について「徹底的な証しをする」」誌、101,102P.
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